最終更新日:2019年2月 5日 作成日:2019年2月 5日 | コメント(0)

新吉原花園池(弁天池)跡 吉原弁財天(東京都台東区千束)

2019年1月20日撮影

東京都台東区千束3丁目にある新吉原花園池(弁天池)跡は、入谷駅徒歩11分、三ノ輪駅徒歩13分の場所にあります。
新吉原花園池(弁天池)跡には、弁天池や吉原弁財天、観音像、花吉原名残碑などがあります。
近くには吉原神社もあるので、観光時には吉原神社と新吉原花園池(弁天池)跡をセットでまわる人が多そうです。

2019年1月20日撮影

中に入ると通路はこんな感じです。

2019年1月20日撮影

説明文にはこのように記載されてます。
新吉原花園池(弁天池)跡
台東区千束3丁目22番
江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦3年(1657)の大火後、幕府の命により湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊廓が移された。 以来、昭和33年までの300年間に及ぶ遊廓街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。
遊廓造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊廓楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参拝者が訪れている。
池は、花園池・弁天池の名で呼ばれたが、大正12年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死するという悲劇が起こった。弁天桐付近の築山に建つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものである。昭和34年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋立工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなった。
平成10年3月 台東区教育委員会

観音像

2019年1月20日撮影

2019年1月20日撮影

関東大震災の供養として造立した観音像です。

2019年1月20日撮影

定期的に碑が追加されてます。

花吉原名残碑

2019年1月20日撮影

説明文にはこのように記載されてます。
花吉原名残碑
台東区千束3丁目22番 吉原弁財天
吉原は、江戸における唯一の幕府公許の遊廊で、元和3年(1617)葺屋町東隣(現中央区日本橋人形町付近)に開設した。 吉原の名称は、植物の葭の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより、はじめ葭原と称したのを、のちに縁起の良い文字にあらためたことによるという。
明暦3年(1657)の大火を契機に、幕府による吉原遊廓の郊外移転が実行され、同年8月浅草千束村(現、台東区千束)に移転した。 これを「新吉原」と呼び移転前の遊廓を「元吉原」という。
新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、昭和33年「売春防止法」の成立によって廃止された。
その名残を記す当碑は、昭和35年地域有志によって建てられたもので、碑文は共立女子大学教授で俳人、古川柳研究家の山路閑古による。
昭和41年の住居表示の変更まで新吉原江戸町、京町、角町、揚屋町などの町名が残っていた。
平成17年3月 台東区教育委員会

吉原弁財天

2019年1月20日撮影

2019年1月20日撮影

吉原弁財天は一番奥にあります。
ここには池があり、魚も泳いでます。
吉原弁財天の雰囲気は、全体的に装飾も豪華さを演出されており吉原らしさ感じます。

2019年1月20日撮影

2019年1月20日撮影

2019年1月20日撮影

2019年1月20日撮影

2019年1月20日撮影

2019年1月20日撮影

2019年1月20日撮影

2019年1月20日撮影

2019年1月20日撮影

2019年1月20日撮影

2019年1月20日撮影

2019年1月20日撮影

2019年1月20日撮影

その他の写真

2019年1月20日撮影

2019年1月20日撮影

2019年1月20日撮影

2019年1月20日撮影

2019年1月20日撮影

2019年1月20日撮影

2019年1月20日撮影

新吉原花園池(弁天池)跡 吉原弁財天の情報

住所 東京都台東区千束3-22

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